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​沢山、たくさん

たくさん

 沢山(たくさん)とは、数量が多いこと、十分な量があること。食事を十分にとって満腹なので、相手がおかわりを勧めるのをことわるとき、「もう、たくさんです」という。文句ばかり言う相手に「もう、たくさんだ」とぶちきれるのは、腹いっぱいなので(文句を聞き飽きたので)もうおかわりはいらない(これ以上文句は聞きたくない)という意味。英語でも“enough(十分、十分なのでこれ以上はいらない)”という類似の言い方があり、押し付けがましかったり、しつこかったりする相手へのぶちきれ方は洋の東西を問わないようだ。

「沢」という漢字(旧字体では「澤」)は、湿地、沼地を表し、そこから潤う、湿り、恵み、つや、てかりなどの意味が派生した。「沢山」の「沢」のような「多量である」という意味は中国語にはなく、同じ意味合いの「潤沢」や「贅沢」なども日本で作られた熟語のようだ。日本には、湿地や沼地を表す「さは(さわ)」という和語があり、「沢」にはこの読みが当てられた。「さは」はまた、「人さはに国には満ちて(国には人が増えて)」(『万葉集』)などと使って、多数、多量を表す語でもあった。沼地の「さは」と多量である意の「さは」が関係あるのかどうかはよくわからないが、ある辞書には、多量である意の「さは」は平面に多量に広がり散らばっているさまをいうと説明されていて、大量の水で潤っている沼地の「さは」との関係がほのめかされている。しかし、「八十(やそ)の湊(みなと)に鵠多(たづさは)に鳴く」(多くの港で鶴が群れ鳴いている)(『万葉集』高市黒人)のように、無理に「平面に…」と解釈しなくてもよい例も多い。この歌の場合「さは」は、「騒ぐ」の「さわ」でもよさそうだが、前者は「佐波」と、後者は「佐和」と漢字が当てられ、「波」と「和」の当時の撥音は「pa」「wa」とされているので、別種の語であり、高市黒人が掛詞(かけことば)として使っていたかはともかく、両者を結びつけるのは無理がある。

「沢山(たくさん)」は、多量を意味する「さは」と、「山と積んで」のようにやはり多量を意味する「やま」を組み合わせ、音読みしたものだというのが語源説として有力だが、もととなったとされる「さはやま」という言葉が登場するのは江戸時代なので、なぜ「沢山」がいきなり音読みになったのかはうまく説明できていないようだ。「山」という字を「さん」または「「ざん」と音読みするのは、高野山金剛峯寺、比叡山延暦寺のように山号寺号で、中国にならって音読みにしているが、そんなことと関係あるのかとも思える。

 同じく多量であるという意味で、いまも関西地方で使われる「ぎょうさん(仰山)」という言葉があるが、その語源としては「ぎょう」は、めったにないことを意味する「稀有(けう)」で、「さん」は、性質や程度を表す接尾語「さ」(『大言海』)、または多量を意味する「さは」(『俗語考』)ではないかとする説がある。その説に乗っかると、「たくさん」ももとは、「たく」に「さ」や「さは」が付いた和語だったのではないかとも考えられる。

​(VP KAGAMI)

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