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うつつ、現

うつつ

 うつつは、「現」と書くように、この世の現実のことであり、「夢」に対する覚醒した状態をも意味する。しかし、夢見心地であるという「夢うつつ」や、夢を見ているような気分でという「うつつとも無しに」といった使い方の影響からか、「うつつ」だけで、夢を見ているような状態という意味で使われることもある。泉鏡花は『婦系図』で、老馬丁が病の床で、実の娘をひと目見たいと「現(うつつ)に言うように」なった、つまり、朦朧(もうろう)として言うようになったと書いている。この「現(うつつ)」を額面通りに解釈すると、死の床についた病人が突然キョンシーみたいに目覚めて(例が古いね。それに、老人はまだ死んでね~し)、ものを言ったと受け取れるが、この「うつつ」は「夢うつつ」の略であり、そのような使い方は『太平記』の昔からあって、けっして鏡花先生がおバカだったわけではない(当たり前だろ)。

「うつつ」は、コピーするという意味の「写す」、映像として現す意味の「映す」などと同源と見られている。もとのものをそっくり他のところに「移す」のが「写す」「映す」だから、移動するという意味の「移す」ももとは同じ。この世の現実が、コピーされたり映像としての見かけだけの仮の世「写し世、映し世」だったり、輪廻し続ける「移し世」だったりするのは、まるで仏教哲学だが、「うつつ」という言葉は『万葉集』ですでに「現実」の意味で使われているので、そういう言葉が仏教伝来以前からあったのか、仏教の影響を受けてそれらの言葉の関連性が生まれたのかはわからない(ちゃんと研究している人は「おらあ、知っとるぞ」と言うかもしれないが)。

(KAGAMI & Co.)

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